銀山ヴィレッジについて

全国理容連合会 理容遺産認定

全国理容連合会 理容遺産認定
平成24年5月1日、和田珍味石見銀山店(銀山ヴィレッジ・理容館アラタ)が、世界遺産石見銀山の遺跡内にあり、大正末期の理容文化を残す重要な理容遺産と認められ、全国理容連合会「理容遺産認定」の第一号店として認定されました。
理容遺産の認定基準…歴史に残る理容関連遺産を大切に保存し、文化的遺産として次世代に伝えることを目的に「理容遺産」を全国理容連合会が認定。

緑豊かな銀の町 大森
昨年ユネスコの世界遺産に登録された石見銀山遺跡は、かつて世界の経済や文化交流に多大な影響をもたらした石見銀を産出した鉱山都市です。
江戸幕府の直轄地となった石見銀山の政治や経済の中心となって栄えた町が島根県大田市の山間にある大森町です。山裾を縫うように細く続くこの町に、江戸幕府は代官所を置かれ、領内150余国を治めていました。
その繁栄の面影を今に伝える武家屋敷、町屋、商家、郷宿、寺院は江戸時代としてはきわめて珍しく、混在しながら軒を連ねています。身分制度が厳しかったその時代に、山にはばまれたこの町では鉱山労働者、武士、商人らが身分を越え、ともに助け合いながらシルバーラッシュに沸く町を盛りたてていったのです。
遺跡を守り、街並みを保存
輝かしかった繁栄がこの町に伝わるのは、町の人たちの自主的な活動のたまものでもあります。さきがけとなったのは、昭和32年に全戸加入で結成された「大森町文化財保存会」です。閉山による、歴史の風化を食い止めたい。人々は遺跡の清掃活動や看板立てなど地道な活動を続けました。

旧邇摩郡役所の解体計画を白紙に戻したのも町の人たちでした。その後、郡役所の趣はそのままに地元運営の石見銀山資料館が開館したのでした。

その延長線上に始まったのが町並み保存活動でした。昔ながらの技術を駆使して住まいを歴史的景観にあわせて修景したり、建てられた当初の姿に戻すなど修理を行い続けてきました。これまでに手がけたのは約100棟。

歴史が色濃く刻まれたこの町並みとかつての鉱山町銀山町は、昭和62年、国の重要伝統的建造物群保存地区にも選定されています。
ノスタルジックな理容館

ノスタルジックな理容館

大森の町並みの一角に、大正末期から昭和初期の面影を ノスタルジックに彩る一軒の理容院があります。
理容館アラタです。現在、営業はされていませんが、店舗は創業当時の雰囲気に修景・修復されています。
たとえば、入り口のガラス戸は、倉庫に保管されていた創業当時のものです。消えかかっていた店名は書きなぞり、傷んだ部分は補修して閉店間際に使われていた戸と付け替えられました。
この店を経営していた故荒田末市さん・トメヨさん夫妻が使用した理容道具や什器もディスプレイされています。

なかでも目をひくアンティークな理容椅子はアールヌーボーのデザインが施されたもの。大正時代に流行した一品として、理容の歴史も物語ります。
「ここに立てば父や母の仕事に打ち込む姿、詰め掛けるお客様の賑わいが甦るよう。この店を作ることによっていい記憶を残してくれたと思います」と長男の耕造さんは語ります。
徹夜で散髪に励んだ理容師夫婦

徹夜で散髪に励んだ理容師夫婦

「理容館アラタ」の創業は大正末期から昭和初期。当時大森には5軒の理容院がありましたが、そのうち3軒を末市さんが経営していたといいます。当初の名前は「東洋軒」としていたようです。そのほか末市さんは旧藤田鉱業社宅(永久坑道精錬所付近)近くに出張所を構え、手広く理容業を営んでいました。
年末の忙しさは格別で、大晦日の夜も店に立ち、すべての客を終えた時にすでに年を越していたこともありました。
「徹夜明けでも店の掃除は隅々まで。新年準備も家族揃っての挨拶も、理容道具を念入りに手入れしてからでした」と耕造さんは回想します。

第二次世界大戦中は食糧難など苦しい時期となりましたが、疎開者による人口増加で店のにぎわいは変わることはありませんでした。親元を離れ、大森の各寺で過ごしていた疎開児童たちの散髪も荒田夫妻が手がけています。
昭和34年、末市さんの他界後に店を切り盛りしたのはトメヨさんです。日頃は寡黙。けれどひとたび店に立てば朗らかに世間話に耳を傾けるトメヨさんは80歳過ぎまで現役を続けました。
市に並んだ五十猛の海の幸
大森の町には、ささやかな娯楽もありました。その一つが理容館アラタの裏手の芝居小屋。耕造さんの記憶には芝居の余韻そのままに、夢見心地に町を歩く人たちの姿が刻まれています。さらに楽しみにしていたのは季節のお祭りです。
「春・秋の井戸さん祭り、盆や暮れには市が立ち、多くの行商人で大賑わいでしたね。」
交通機関が発達していなかった時代、市に並ぶ周辺の村々の特産品は待ち遠しいものでした。
和田珍味の先々代も、五十猛の海の幸を届けたいと、祭りや市が立つ日には各種取り揃えて大森に足を運んだといいます。山間の町になると、海産物は貴重なタンパク源。海産物を手に喜ぶ人の姿に出会うたび、美味しいものを作る喜びがふくらんでいったといいます。
全ては日本海から学ぶ

美味しいものをお届けするために。和田珍味では常に素材にこだわってきました。素材には輸入品を一切使うことなく、すべてに日本海や九州各地で獲れた魚を使用しています。
昨今、価格が高騰していますが、日本の漁場で育まれた極上の素材を吟味して使用する、という素材重視の姿勢は決して変わりません。さらに製法へのこだわりも一貫してきました。
極上の素材をいかに鮮度よく、美味しさを、美味しさを引き出すのか。魚介類は手づくりで加工し、丁寧に仕上げています。美味しい製品を作り、安心・安全をお届けする、こうしたこだわりを育てたのは、紛れもなく、和田珍味創業の地五十猛の海といっても過言ではありません。

昭和20年代から30年代にかけて、当社工場前の海原に浮かぶ神島の沖合いで、ふぐ延縄漁が盛んに行われてきました。浜にあげられたふぐを美味しく加工する、気骨な職人たちの経験と技術は、和田珍味に受け継がれ、ふぐ珍味作りはスタートしました。
海を間近に感じながら養う魚を見る目、魚をさばく手、美味しさを生み出す発想力。製造に励むスタッフ一人ひとりに培われた探究心と技術で、安心・安全、美味しい千品が生まれています。
そして銀山ヴィレッジへ
トメヨさんの引退で「理容館アラタ」の幕は閉じられました けれど、耕造さんによって店が復元され、二人の足跡、 モダンな理容館に華やいだ当時の町の人々の面影は時代を超えて語り継がれていくこととなりました。地域を見つめ、地域の風土を守りたいと、創業の地五十猛の地域遺産を大切にし続けてきた和田珍味では、さらに視野を広く、同じ石見で生まれ、暮らすものとして大森地区の暮らしも大切に守りたいと考えてまいりました。
そこで、平成20年4月から理容館アラタとともに営業を続ける和田珍味石見銀山店を総称して「石見銀山ヴィレッジ」と名付け理容館アラタの保存・維持への強力をスタートしました。
理容師として実直に朗らかに、町の人とふれあいを大切にし続けたお二人の意思を、次代に受け継いでいきたいと考えています。
和田珍味のこれからの取り組み
世界遺産として登録され、一躍有名になった石見銀山にある大森銀山重要伝統的建物群保存地区は鉱山に隣接して発展した鉱山町で北東側の大森地区と南西側の銀山地区の2地区に分かれます。
世界中のどの地域においても人々が集い、ともに助け合いながら生きていく場所として「村」は生まれますが、江戸時代の大森も邇摩郡佐摩村の内に発達した町場として発達し石見銀山領150余村を支配した代官所所在地として経済の中心として大いに発展したのです。石見銀山には城が存在しなかったため大森の町は鉱山労働者、武士、商人、手工業者など多種多様な人々が混在して助け合い居住しておりました。町並みも武家・商家・寺院などの混在が大きな特徴となっているのです。私たち石見に生まれ、暮らすものとして今も脈々と続くこのような大森地区の暮らしを大切にしたいとの思いから、旧理容館アラタとともに営業を続ける和田珍味石見銀山店両方を総称して「銀山ヴィレッジ」と名付け保存に協力していくことを決めました。「銀山ヴィレッジ」はこのようなコンセプトのもとに地域との共生と本物志向の思想を象徴する懐かしさと癒しのある空間として守り続けていきたい空間なのです。