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歴史・沿革HISTORY

>>領民を救った石見銀山の「芋代官さま」

世界遺産、石見銀山とは?

石見銀山は、戦国時代~江戸時代までの間、多くの銀を産出した世界有数の銀山です。
戦国時代には、その豊富な銀の産出量から大内氏、尼子氏、毛利氏など名だたる戦国武将がその覇権を巡って争いました。その後、豊臣秀吉、徳川家康にも統治され、江戸時代には、幕府直轄領となり幕府の財源にもなったほどでした。
石見銀山の銀は、国内の商業的発展に寄与するだけでなく17世紀前半の最盛期の頃には、世界の産出銀の約3分の1もの産出量を誇り、ここ石見銀山から中国、朝鮮半島はもとより、アジア諸国、当時絶大な力を誇ったポルトガルやスペインなどヨーロッパ諸国との交易にも利用され日本と世界をつなぐ役割を担いました。

●世界遺産登録●

石見銀山は、2007年7月に世界遺産に正式登録されました。石見銀山遺跡は、当時の採掘の様子がわかる銀山柵内(ぎんざんさくのうち)をはじめ、戦国武将が争奪を繰り広げた城、天領として栄えた町並み、石見銀山から産出された銀を積み出した沖泊(おきどまり)など当時の状況がわかる史跡が数多く手付かずの状態で現存している非常に貴重な遺跡です。

>>石見銀山人物辞典 >>石見銀山史跡紹介

領民を救った、石見銀山の「芋代官さま」

江戸時代、石見銀山の代官を勤めた井戸平左衛門。
時代を超えて、今日まで地域の人々から親しまれている名代官の人生をご紹介します。

あの大岡越前に 見込まれて石見へ

世界遺産・石見銀山は江戸時代、幕府の直轄領となり奉行や代官が着任して治めていました。江戸城で勘定役として30年余り勤めた井戸平左衛門は、勤勉な人物として知られていました。
そんな平左衛門が石見代官に任命されたのは、享保16年(1731)9月のことでした。60歳での任命は、一説に平左衛門の人柄と経験を見込んだ大岡越前の推薦があったからともいわれています。

石見地方をおそった 享保の大飢饉

平左衛門が石見銀山に着任した翌年、全国的に「享保の大飢饉」といわれる大凶作に見舞われました。石見地方では、とくに害虫が大発生して稲作に大きな被害を与えました。領民の苦労を見かねた平左衛門は、自らの財産を資金にお米を購入し、さらに幕府の許可を待たずに代官所の米蔵を開いて、人々にお米を配布しました。
また、年貢米を減免や免除にする思い切った手だても断行しました。年貢米の軽減は他の地域とくらべても大幅なもので、平左衛門の領民を救いたいという思いの強さをうかがうことができます。

危険をおかして サツマイモを入手

「芋代官さま」の愛称で平左衛門が親しまれているのは、もうひとつの功績によります。それは、サツマイモ栽培の導入でした。
平左衛門は諸国を巡っていた僧、泰永からサツマイモの話を聞きました。「少ない労力で多収穫。肥料も少なくてすむサツマイモは、土地のやせた石見に適している」。そう考えた平左衛門は、さっそく手代の伊達金三郎を薩摩国に同行させました。
ところが、サツマイモは薩摩国以外への持ち出しを禁止されていました。それでも苦労の末、ようやく種芋を入手して石見に持ち帰ることができました。しかし、初めての栽培はことごとく失敗。ただ一人、松浦屋与平衛という農民だけが栽培に成功し、それを種芋として栽培技術の向上に努めました。その後、サツマイモ栽培の発展によって、石見銀山の領地では餓死する者がいなかったと伝わっています。

「芋代官」井戸平左衛門が薩摩より移入したサツマイモは現在出雲・石見の名産となり、大田市でもこれを原料とした特産品が多く作られています。
和田珍味でも地元の特産品として取り扱っており、お土産にご好評いただいております。

病死説と切腹説 今も謎の残る最期

石見でのサツマイモ栽培は広く山陰にも伝わり、当時の人々の生活を安定させました。平左衛門の石見銀山での在任は2年足らず。山陰では、それでも平左衛門を敬慕し、「芋代官さま」「芋どのさん」と呼んで先祖に代わって今でも感謝しています。
享保18年(1733)5月、井戸平左衛門は現在の岡山県佐々岡市で亡くなりました。享年62歳。飢饉のときに許可を得ないで米蔵を開放し、年貢を免除した責任から切腹したと推察されています。また、現存する書簡によると、石見代官の頃より病気であったことから病死説も有力とされています。 石見銀山の井戸平左衛門は大飢饉と自らの病気を重ね合わせ、命がけで領民をまもる闘いに挑んでいたのかもしれません。

石見銀山のかくれた史跡、井戸神社

井戸平左衛門の死後から百年。
飢饉に苦しむ領民を救済した善政は、ずっと語り続けられていました。人々は石見地方を中心に頌徳碑を建立し、その数は500基におよぶといわれています。明治12年(1879)には、井戸平左衛門を祀る井戸神社も創建されました。明治43年(1910)になると井戸神社復興会も活動を開始。それにより各地から募金が集められ、大正15年(1916)に現在の場所に新たな社殿が完成しました。この社殿には、秋の例祭になるとサツマイモが奉納されています。

鳥居にかかげられた 勝海舟の自筆

井戸平左衛門が勤めた大森代官所跡は現在、石見銀山資料館として活用されています。この資料館の前を通る道を、銀山公園の方向へ約100メートル。左手に苔むした古い石段があります。この石段を登ると威風堂々とした井戸神社が見えてきます。
社殿につながる階段の両脇には、まるで守神のように古樹が立っています。先人が植えて大切に守ってきた2本の立派な大木。その、まっすぐ天を突くようにスッと伸びた姿は、あたかも平左衛門の行き方を彷彿とさせます。鳥居にかかる扁額は勝海舟の自筆によるもの。井戸平左衛門の生きざまに感銘を受けた文人、政治家も少なくありません。
石見銀山に、ひっそりと佇む井戸神社。かくれた名所ともいえるこの古社は、石見地方の人々の心の世界遺産ともいえます。

◎石見銀山観光情報はこちら

●石見銀山世界遺産センター●

石見銀山のすべてを紹介する拠点施設。大森代官所の長屋門をモチーフにしたガイダンス棟では、間歩の模型や写真パネルなどを展示しています。観光に便利な路線バスも発着しています。

・開館時間(8:30~17:30) ・電話(0854-89-0183)
・休館日(毎月最終火曜日、年末年始)

石見銀山人物辞典

●大久保長安墓所●〔大久保長安〕

新技術の導入などにより石見銀山の最盛期をもたらした初代奉行。佐渡奉行なども勤め「天下総代官」とも呼ばれました。

●龍昌寺跡●〔川崎平右衛門〕

代官として銀山復興に努め、波根湖干拓地や海岸沿いにあった砂丘地の開発を進めました。龍昌寺跡に供養塔が建っています。

●勝源寺●〔竹村丹後守〕

石見銀山の第二代奉行。田・畑・屋敷などを調査する総地検を行ないました。歴代代官6人の墓所を残す勝源寺を創建しました。

●五百羅漢(羅漢寺)●〔坪内平七〕

温泉津町の石工。平七一門は銀山で亡くなった人々の供養として寄進された五百羅漢を約20年の歳月をかけて彫像しました。

●吉岡出雲墓所(極楽寺)●〔吉岡出雲〕

石見銀山の役人。伊豆、佐渡の金銀山の開発にもあたり功績を上げました。龍源寺間歩の近くにある極楽寺にお墓が残されています。

史跡紹介

●龍源寺間歩●

石見銀山の間歩の中で、唯一一般公開されている間歩です。閉山となる1943年(昭和18年)まで220年余りにわたり採掘が続けられました。坑道の長さは600mに及びます。

●大久保間歩●

初代奉行の大久保長安の名前から付けられた、石見銀山最大級の間歩です。江戸時代、長安は槍を持って馬に乗ったまま坑内に入ったといわれ、天井の高さが最も高いところで5mにも及びます。 ツアー形式で一般公開されています。

●大森代官所跡(石見銀山資料館)●

代官所の跡地にある石見銀山資料館です。
内部には約500点の銀山資料を展示しています。

●大森の町並み●

徒歩20分、約0.8km続く石見銀山の外郭町となる地区です。武家や商家、社寺など様々な建物が混在しているのが特徴的で、銀山が栄えた当時の面影が今も残っています。
重要伝統的建造物群保存地区に指定されています。

●熊谷家住宅●

地区いちばんの商家建築です。家業である鉱山業や酒造業のほか、代官所に収める年貢銀を秤量・検査をしていました。国指定重要文化財に指定されています。

●旧河島家●

町並みで唯一公開されている武家屋敷です。復元された主屋に当時の生活用品を展示し、一般公開しています。

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